青天を衝けの主役は近代日本経済の父渋沢栄一ですが、現在のところ草彅剛さん演じる「徳川慶喜」が中心に描かれるシーンが多くなっています。
では徳川慶喜と渋沢栄一の生涯を比較してみます。
青天を衝け!主役は徳川慶喜?の生涯
生誕
徳川慶喜は1837年江戸の水戸藩邸にて七男として生まれています。渋沢栄一は1840年生まれですので慶喜が3歳年上になります。
当初は父斉昭はその聡明さから七男であっても水戸家に残そうとして考えており松平昭致と名乗っています。
一橋家相続
徳川慶喜は1847年に第12代将軍・徳川家慶の希望もあり一橋家を相続し一橋慶喜と名乗ります。
この時栄一は7歳。まだ従兄の尾高惇忠から論語などを学び始めていました。
安政の大獄による謹慎
慶喜は積極的に将軍になろうとはしていませんでしたが、後継者争いに巻き込まれ最終的に1859年安政の大獄により謹慎となってしまいます。
翌年桜田門外の変により安政の大獄の首謀者井伊直弼が暗殺され謹慎が解除されました。
ここからが徳川慶喜の活躍が表立ってくることになります。
この時栄一は19歳から20歳。
最初の妻千代と結婚直後でしたが、尊王攘夷の思想に目覚めはじめます。
将軍後見として京都へ
1863年将軍徳川家茂の上洛に伴い、慶喜は将軍の名代として朝廷と交渉をするため京都に滞在します。
この時、渋沢栄一も高崎城乗っ取りなどが計画で終わり京都にて尊王攘夷活動を考えていましたが、うまくいかず。
親交のあった平岡円四郎の推挙で一橋慶喜に仕えることになります。
将軍職に
1866年に慶喜29歳の時に家茂が亡くなったことで、最終的に将軍職に就きます。
慶喜は開国に向けて特にフランスと友好的な関係にあり実弟・徳川昭武をパリの万国博覧会に派遣しています。
この万国博覧会の派遣メンバーに渋沢栄一も含まれていました。
大政奉還
1867年薩摩長州藩が倒幕に向けて進むことを予期した慶喜は政権の返上を明治天皇に奏上します。
この時、渋沢栄一は欧州滞在中。
その後、戊辰戦争で慶喜はあまり戦わず1868年には江戸城無血開城などを経て駿河(静岡県)にて謹慎生活となり、日本史上最後の征夷大将軍となりました。
余生
実はここまでが徳川慶喜の活動の中心となります。
1902年に貴族院議員として35年ぶりに政治に関わることになりましたがそれ以外は好きな事をして暮らしていくという生活でした。
1913年に77歳で死去。
逆に1869年ごろから渋沢栄一が実業家としての活躍が目立ち始めます。
よって青天を衝けは実質前半1/3の主役は徳川慶喜、その後が渋沢栄一という流れになりそうです。
徳川慶喜は征夷大将軍ではなくなった後幕臣とはほとんど会っていませんが渋沢栄一とは親交があったと言われています。
よってドラマでは渋沢栄一のターニングポイントなどで徳川慶喜がキーマンとして出てくる可能性が高いでしょう。
まとめ
おそらく、大政奉還までは草彅剛さん演じる徳川慶喜が主演のようになってしまいがちですが、大政奉還の場面等から渋沢栄一が大活躍するシーンが描かれていくはずです。
その場面を楽しみに「青天を衝け」の放送を楽しみに待ちましょう!
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